やがて夕暮れが(6部)



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          はだい悠


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 車内の混雑を拷問のように感じながらマサオは冷たく光る鋼鉄の棒に老人のようにもたれかかった。硬い棒はマサオの意思を無視するかのように肩に食い込んだ。金属的なきしみ音がマサオの周囲に響いた。窓ガラスに映る疲れきった自分の顔からマサオは思わず眼をそむけた。マサオは手足が自分のものではないように感じながらアパートに向かって歩いた。部屋に帰るといつものようにだらしなく横たわった。少し休むと気分が落ち着き思考力が回復してくるのがわかった。マサオは一日の出来事を思った。このあいだ自分に生きる自信を取り戻してくれた考えが、何の役にも立たないもののような気がした。朝、仕事が始まるときは、そんな考えと自信をよりどころに余裕を持って臨むのであるが、会社のあわただしいな彼のなかでは、そんな考えも余裕も消えてしまい、いつものように仕事に追われながら呆然と一日を終えてしまうのである。《結局以前とちっとも変らない状態ではないのか? どうしてだろう? あれは単なる思いつきで現実の前ではなんら通用しないものなのだろうか?》とマサオは思った。
 夜も更けた。マサオは寝床に入った。風が出ているのか、窓ガラスが音をたてた。電車の音が聞こえた。だが、マサオの心は外の気配を拒絶するかのように身体のうちに閉じこもっていた。外の世界はマサオの心とは無関係によそよそしくあるだけであった。
 マサオは帰り際に見た夕焼けを思い起こした。ある思いとそれにまつわる感情が沸き起こりそうになったが、何か眼に見えない障害物に邪魔されたかのように、胸につかえたままだった。マサオは言葉にもイメージにもならない感情に苦しめられた。


 九月も終わりに。
 夕方になると風は肌寒いほどだった。
 勤務を終えた良夫は開放感に浸りながら駐車場の車に乗り込んだ。そしてなれた手つきでラジオのスイッチを押すと、座席のバックミラーを見ながら乱れた髪の毛を整えた。すると、ふと知子を迎えに行くことを思いつき、急いで車を走らせた。


 二十分後、良夫は知子が帰ってくるのが見えるように、道路のわきに車を止めた。家路を急ぐ人々がひっきりなしに良夫の車のわきを通っては駅へと歩いていた。
 良夫は知子がいつもより遅いような気がした。また会社の誰かといっしょに帰ってくるのかと思うと苛立った。楽しそうに話しながらいるいてくる男女の姿が眼に入ってきた。知子ではなかったが、その二人の親しそうな関係が不自然なものに感じられ、良夫には見苦しいものに思われた。人々がひとつのまとまりのように歩いていることに良夫は理由もなく反発を覚えた。
 まもなく知子が独りで歩いてくる姿が群集に浮き立つように見えた。良夫は知子のおっとりとした歩き方がなんとなく気になった。良夫は人ごみを横目に意識しながら知子の後を追うように車を乱暴に走らせた。そして知子のわきに車をつけると、ややきもちの高ぶりを覚えながらクラクションを小さく鳴らした。
 知子を乗せると良夫はやや落ち着きを取り戻しながら車を走らせた。良夫は無意識のうちに、知子を車の部品のように、なくてはならないもののように感じていた。 
 繁華街の通りの駐車場に車を止めると、良夫と知子はは賑やかな通りを歩き出した。二人は群集にのみこまれるように華やかな風景に酔いしれながら歩いた。良夫はいつになく智子に注意を配り気遣った。知子は良夫の思いやりを素直に受け入れた。良夫は誇らしげであった。騒々しさのあまり会話がうまく通じなかったが、知子は良夫の言うとおりに従って歩いた。そして食事のため華やかなレストランに入った。
 食事中、良夫はやや気取りながら話しかけた。知子はなにも考えずに賑やかな雰囲気に溶け込みながら終始楽しそうに振舞った。一時間後、食事を終えた二人は、再び車に乗り夜の街を走り出した。満足そうな良夫の横顔を見ていると知子は、ほっとするのを感じた。これから自分たちはきっとうまく行くに違いないと思った。
 知子はふと買い物を忘れていることに気がつき、良夫に頼んで店の前に車を止めてもらった。店に駆け込み、商品を物色している知子を車のなかから見ながら良夫は《知子には自分しか必要ない、自分だけか知子を幸せにできる》と思い込んでいた。
 思ったより知子が遅かった。良夫は再び店の様子を見た。知子が男の店員と笑顔で親しそうに話しているのが見えた。なぜ見ず知らずの男にまで笑顔を振りまくのか? 良夫には知子の行動がどうしても理解できなかった。良夫は裏切られたような感情を抱きながら無性に苛立った。
 知子が戻ってきた。良夫は不機嫌な表情で乱暴に車を走らせた。買い物も無事に終えてほっとしたのか知子は、そんな良夫にも気づかず和やかな気分になっていた。
 しばらくすると良夫は、知子に横顔を見せたまま少しぶっきらぼうに言った。
「そんなに楽しいことがあったの? でれでれして、、、、」
なごやかな気分に浸っていた知子には、それは良夫のちょっとした冷やかしのように思えた。知子は満ち足りた気持ちで「だっておかしいじゃない」と言いながら良夫のほうを見たが、良夫は車を運転しているときにいつも見せる硬い表情に変っていた。それを眼にして知子はそれ以上言葉を続けることができなかった。《どうしてこうなるのだろう?》と思うと情けない気持ちになった。そして自然と顔から笑みが消えていくのが判った。  笑みの消えた知子の不満顔に良夫は知子の強情さを感じた。そして知子が自分に逆らっているように思え、憎しみに近い感情が沸き起こってきた。さらに良夫は、知子は自分のことが好きで付き合っているのではなく、また自分といっしょに居ることを楽しんではいないように思われた。
「俺と付き合うのがいやならはっきり言えば良いじゃないか」
「どうしてそんなこと言うの?」
と知子は興奮する気持ちを抑えながら穏やかに言った。だが良夫には知子のそんな落ちつきぶりが気にいらなかった。
「でも、いまさら別れようたってそうはいかないよ」
《なぜこんなことを言うのだろう? せっかく今まで楽しくやってきたのに、良夫はいったい何が気に入らないのだろう?》と知子は思った。
 知子には良夫の突然の気持ちの変化が理解できなかった。やっぱり自分たちはダメなのだろうかと思うと悲しい気持ちになっていった。そしてもうなにも話したくない気分になった。
 押し黙っている知子を見て良夫は、知子が自分より大人びているように思われ、そしてその優越感を知子が味わっているように思われると、訳もなく苛立った。そしてますます憎しみの感情が高まっていった。
「ほかの男と付き合うようなことがあったら、俺との関係を全部しゃべって、邪魔してやるから、、、、」
 あの日以来、やや傲慢さの目立つ良夫をわがままのように感じてはいたが、今の言葉だけは許せない気がした。二人の関係がどこまで行っているにせよ、そんなところまで干渉する権利はないはずだ、と知子は思った。
《いくら信頼を深めようと、いくら楽しそうに振舞おうと、思いがけないところで亀裂が生じてしまい、いつも後味の悪いものになってしまう、二人の性格がほんとうに合わないのではないだろうか》と知子は思った。そして、良夫の不可解な言動を思うと、知子はもはや自分たちを結びつけるものはなにも残ってないような気がした。良夫はいつものように思い通りにいかない運転に苛立ちながら車を走らせ続けた。


 十月になった。ある日の朝、まぶしすぎる外の気配に、マサオは驚いて飛び起きた。朦朧とする意識のまま時計をみると八時を過ぎていた。完全に遅刻だと思うとマサオは犯罪者のようにうろたえ、鼓動が高鳴った。急いで身支度を整えようとした、だが、意識がだんだんハッキリしてくると、どうも様子がおかしいことにづいた。落ち着きを取り戻してきたところで、昨夜の寝る前のことを思い起こした。昨日は金曜日、そして今日は土曜日、休みだったのである。マサオは神経の高ぶりを覚えながらまた眠りについた。
 再び眼が覚めると十時を過ぎていた。先ほどのことを悪い夢のように思い出しながら寝床でじっとしていた。かすかに興奮の余韻が残っているのを感じた。
 下の大家の家から賑やかな話し声が聞こえてきた。心配そうなタカの声と濁った源三の声である。源三が退院して来たらしい。
 昼前、マサオは家賃を払いに階段を下りて言った。やわらかい日差しが射していた。タカが独りで居た。
「おじさんは、いつ退院してきたんですか?」
「昨日」
「それじゃ、もうよくなったんですか?」
「そうでもない見たいなんだけどね、もうすっかり痩せちゃって、まだ出歩いちゃいけないというのにねえ、、、、」
「どこかへ行ったんですか?」
「パチンコに行ったんだよ。もう少しよくなってから行けばいいのにねえ、ほんとにすきなんだねえ、、、、」
「パチンコですか、、、、」
「タバコを取ってくるってきかないんだよ。お医者さんにあまり無理しちゃいけないっていわれているのにねえ、、、、」


 午後にはやわらかい日差しが差し込む。窓の外は初夏のようにまぶしい。そして暖められた部屋のなかをどこからともなく現われたハエが飛びまわる。部屋に差し込む陽射しは時間とともに短くなっていく。やがて風が起こり、窓際のカーテンを揺らしながら涼しい空気が部屋に流れ込むようになる。  隣家の屋根が窓ガラスに映るようになるころ、子供たちのわめき声や走りまわる足音が聞こえてくるようになる。するとまもなく窓の外は赤紫色に染まり、やがて気づかれぬように薄暗くなっていき、肌寒い空気が部屋に流れ込むようになる。
 午後を自分の部屋で過ごしたマサオは、陽が暮れた外の気配に眼をやりながら窓を閉めように窓際に寄った。隣家の壁に翔子の部屋の灯りがほの明るく反射しているのが見えた。《そういえば最近翔子の部屋からは話し声が聞こえてこない、どうしたんだろう?》とマサオは思った。
 たしか二週間ほどまえ、翔子の部屋から重苦しい雰囲気が伝わってきた。耳を澄ますと、いつもの無邪気で屈託のない会話ではなく、大人びた口調で話す男の声や、「イヤよ、お願い」という翔子の興奮した声が聞き取れた。マサオはただならぬ気配を感じて自然と注意を奪われた。マサオには別れ話のように聞こえた。
 男が冷静な口調で、その説明に入ろうとすると、翔子は、「もうやめて、それ以上言わないで」と絶叫するようにいっては話を止めさせ、何度も何度も男の説明を遮っている。翔子は男の話は別れ話であることを察しているようであった。結局男の口からは「別れよう」と言う言葉は出なかったようである。そして深夜まで、あくまで冷静な男の説得と、翔子の哀れと思えるほどの懇願する声が続いていた。翔子は必死によりを戻そうとしているようであった。


 マサオは窓を閉めながら思った。
《やっぱり別れたのだろうか? あれほど楽しそうにやっていたのに。何が原因で? 春に引っ越してきたばかりなのに。なんとあっけない》
 翌日翔子は部屋を引き払っていた。


 会社での昼休み。ビルの窓の外には、よく晴れ渡った穏かな町並が広がっている。マサオはそんな風景に誘われるように外に出た。はるか彼方まで広がる青い空から秋のやわらかい陽射しが降り注いでいる。風は春のような爽やかさであった。マサオは開放感を覚えた。
 昼食時とあってか、通りは会社員風の人々で賑わっていた。彼らはいつものようによそよそしく、他人の存在には感心がないと言った様子で、取り澄ました表情をして歩いている。マサオは人々のそんな表情や態度に見慣れていたとはいえ、どことなく気後れを覚えて、自分が余所者であるような気分になった。
 マサオはやや窮屈な思いをしながら人ごみを歩いていたが、ふと見晴らしのいい場所から遠くを眺めてみたい気持ちになった。マサオはデパートの屋上に上がることを思いついた。
 屋上に出ると、人間の姿は思ったよりも少なく、子供を連れた母親や遊び人風の男、そして学生らしき男女の姿がばらばらと言った程度で、通りのような賑やかさはなかった。大掛かりな遊戯施設はなく、子供が乗る小さなおもちゃの馬や、アイスクリームの売店があり、所々に望遠鏡があるが見ているものは誰もいなく、手摺り沿いにはビニールの屋根のついた椅子が並べられている。スピーカーからは音楽が流れていたが、ときおり中断して迷子の呼び出しが響いていた。
 空は青い巨大な天幕のように広がっているだけである。眼を遮るものはなにもなく、はるか遠くまで見わたせた。ぼんやり眺めていると、先ほどまでの急迫した思いはだんだん薄れていくようであった。
 マサオは椅子に腰をかけた。じっとしていると陽射しで額にうっすらと汗がにじみ出てくるが、ほどなくして乾いた風が吹き寄せてきて、涼しさが戻ってくる。そんな心地よいくり返しが眠気を誘うほどであった。マサオはこのままここにじってしていたい気持ちになった。少しぐらい遅刻してもかまわないと決心すると、ゆっくりと椅子にもたれかかり眼を閉じた。敗れかけたビニールの屋根がときおり拭く風に音をたてた。

 しばらくしてマサオは眠りから目覚めるようにそっと眼を開けると視界に奇妙なものが入ってきた。それは人間の姿ではあるが、その眼は熱病患者のように輝き、どこを見つめるという風でもなく、うつろに青い空に向けられ、顔を風にさらしながら、その方角を探り当てるかのように揺れ動かしている。両手は無造作に放られ、何かをつかもうとするかのように空中をさ迷う。身につけている衣服はなんとなくみすぼらしく、足取りもおぼつかない。年齢もわからない、子供のようにも見えるが、青年のようにも見える。マサオは普通に人間が持っているはずの何かが欠けていると思った。そして町で見かける人間とどこか違っているように感じられた。
 その男はマサオに近寄ってきた。見慣れないものを見たときのようにマサオはとっさに気味の悪さを感じた。男はマサオにかまわず先ほどからの動作を繰り返した。よく見るとその男は重度の知的障害者のようだった。マサオは不快な気持ちになった。それは心地よい眠りを妨げられたときの不快さに似ていた。その男はマサオの近くに寄ってきても、自分の感情に酔いしれるように、先ほどからのこっけてと思えるほどの仕草をくり返していた。マサオはなんとなくその男に親近感を持たれているような気がして、その場から去りたい気持ちになった。マサオは少し迷惑な気持ちを覚えた。そのうちに、マサオの近くに座っていた親子が、やはり気味悪がったのか、そそくさと席を立ちどこかへ行ってしまった。マサオはその男を無視するかのように再び眼を閉じた。
 しばらくして眼を開けると、再び奇妙な光景が眼に入ってきた。電気仕掛けのおもちゃの馬の上で、その振動にあわせるかのように手足をばたばたさせてその喜びを全身に表しながら奇矯な声を張り上げる盲目の幼な子。それを傍で支えながら満足げな笑顔で見守るそのこの母らしい女。その笑顔は泣いた鬼のようである。何か悪い遺伝に支配されているかのような容貌である。それに服装がなんとなくみすぼらしい。やはり町だ見かける人間と比べて何かが欠けているようにマサオには思われた。ふと先ほどの障害者がその親子の傍に寄り添っているのが眼に入ってきた。マサオは彼らは親子であることに初めて気がついた。
 マサオは心の動揺を感じながら彼らから眼を離したものの、頭の中には彼らの細々とした生活や、彼らが住む寂しい裏通りの風景が自然と浮かんできた。マサオは彼らの不幸な遺伝を思わずにはいられなかった。すると急に涙がこみ上げてきそうになった。マサオの頭は混乱した。屋上の風が砂埃とともにマサオの顔に吹きつけた。マサオはいたたまれない気持ちで席を立つと、ふたたび町の風景に眼をやった。巨大なクレーンを使って新しいビルディングが建てられているのが見えた。赤い鉄骨が甲高い槌音を町中に響かせながら、組み立てられている。日増しに高く築き上げられていくその営みが、マサオには、何か暴力的な営みのように感じられた。そしてその槌音は脅迫的な響きに聞こえ、鉄骨のその赤い色は忌まわしい色に映った。
 はとが青い空に、白い残影を落として目の前を飛んでいった。だが空はただの空虚な広がりのようにしか感じられなかった。
 時計を見ると昼休みの時間が過ぎていた。マサオは感情の高ぶりを感じながらデパートを出た。街は普段と変らない賑わいを見せていた。だがマサオには、町を歩いている人間の表情が、不思議と感情を失った乾いたもののように感じられた。そしてその表情のなかに、何の深みもない、乾きすぎた風のようなサッパリとして類型的な心情を感じた。きっと自分もそんな表情をしているに違いないとマサオは思った。
 歩きながらマサオは、奇妙に見えた障害者親子のことを考えた。
《なぜあのときあの知的障害者は気味の悪い行為をしたんだろう? そのとき内部にはどのような感情の高まりがあったのだろう?》と思った。そしてマサオはあの知的障害者の表情や行為をもう一度思い起こした。《もしかして、あのとき、あの知的障害者にとって、風は、魚にとっての水のように感じていたのではないだろうか? そして青い空は、今にも手が届きそうな青いカーテンのように感じていたのではないだろうか?》とマサオま考えた。《それならば、あの行為や表情は隠すことを知らない素直で豊かな感情の表現なのではないだろうか? そして、それは素朴で汚れを知らない迸るような心情の現われではないだろうか?》とマサオは考えた。
 マサオはあの知的障害者のの行為や表情の意味を理解できたようなきがした。そしてその中に自分がわすれていて懐かしさを感じさせるような感情の形を見たような気がした。《それは誰もが心の奥底に持っている根源的なものなのであるが、日々の生活のなかでも、町の人ごみの中でも、皆押し隠しているのではないだろうか》とマサオま思った。《自分を含めて、なぜ人間は、素直な感情表現を失ってしまったのだろうか?》とマサオはさらに思った。そしてマサオは、人々は装い取り澄まし、お互いにぎこちなく窮屈な生き方をしているような気がした。


 なんとか仕事の整理がついた知子はほっとしながら手を休めた。時計を見ると修了までまだ二十分もあった。知子は開放感に浸るようにぼんやりと窓の外に目をやった。ブラインドの隙間から黄ばんだ陽射しが差し込んでいるのに気がついた。知子は席を立ってブラインドを少し上げて外を見た。太陽がビルの陰に沈みかけているところだった。もうこんな季節になったのかしらと知子は思った。もうこれからはだんだん日が短くなるだけだと思うとなんとなく寂しい気持ちになった。知子はブラインドを元に戻すと、もう一度ゆっくりと整理のしなおしを始めた。まとまりのない気分であったがそのけだるさがとても心地よかった。そして頬にほてりを感じながら思った。
《どうしてこんなにも一年が早いんだろう? 若いときはもっと長かったようなのに、それに色んなことがあったような気がする。今年は何かあったかしら? 何にもなかったような気がする。ただ毎日が単調な繰り返しだったような気がする》


   まだ誰もいない更衣室で知子は、いつもより早めに帰り支度をはじめた。まもなく弾んだ声で話しながらやってきた同僚たちであっというまに賑やかになった。若い同僚たちは、開放感を全身に表しながら無邪気な会話に夢中になっていた。だが知子はそんな会話には素直に入れなくなっている自分に気づいた。そんな同僚たちの今晩の予定を耳にしていると、自分は何の予定もなく家に帰り、そして家族の食事などの世話で忙しいだけの自分と比較して、なんとなくうらやましく感じた。みんなはきっと毎日が楽しくてしようがないのだろうと、知子は思った。そして、ふと自分は家に帰ることをそれほど楽しみにしていないことに気づいた。するとなぜか急に気分が沈みこんでいくのを覚えた。


 仕事を終えても、マサオは開放感がわかなかった。終了間際の斉木の動物的な顔から出た不可解な笑いが、先ほどから何度も頭のなかに消えては現われ、脅迫的にマサオの心を占領していた。捕われた気持ちのままマサオは帰る支度を始めた。なんとなく窓の外に眼を向けた。薄暮の町の風景が眼に入ってきたがなんの感慨も沸かなかった。どんな考えや思いを抱いて一日に臨んでも、結局はいつものように軽い頭痛と閉じ込められたような気持ちで耐えるように一日を終えるだけのような気がして、マサオはやりきれない気持ちになっていた。  窓から独りで帰って行く知子の姿が見えた。急に和らぐ気分を覚えながらマサオは、無性に知子と話したくなった。マサオは知子の後を追うように急いで外に出た。


 会社の通用門の賑わいを横目に感じながら知子は歩き出した。冷たい空気が火照った頬に気持ちよかった。しばらくすると背後から聞いたことがあるような足音に気がついた。
 知子は思わず振り向いた。
 マサオであった。


 思わず知子の笑顔を眼にして、マサオは照れくささもあって言葉が出なかった。
 知子も嬉しそうな笑みをたたえたまま何も言わなかった。
 二人は並んで歩いた。
 お互いに黙って歩いていてもなんら不自然な感じはしなかった。お互い言うべきことを考える必要ながないように思われた。不思議な気持ちであった。ビルの隙間から夕日が沈んでいくのが見えた。マサオま内部に沸き起こる喜びで体が温まり疲れが取れていくような気がした。


 町のざわめきをついて、知子の柔らかい声が、耳元のささやきのように響いた。
「今日は休みだと思ったわ」
「どうして?」
「だって、ぜんぜん、見かけなかったから」
感情の高ぶりを隠すようにマサオはややふざけた気分になって言った。
「ちゃんと働いてましたよ。私はずる休みなんかしませんよ。なにせまじめですからね」
「そうね、高橋さんは真面目だから、、、、」
マサオは冗談のつもりで言ったのだったが。少し沈黙が続いたが知子が思いついたように弾んだ声で言った。
「ねえ、陽が短くなったと思わない?」
「うん、そうだね」
とマサオは、今初めて気がついたように周囲に眼を向けながら言った。
「五時前よ。もう五時前には太陽がビルの向こうに沈んでいくのよ。見なかった?」
「ふーん、そうなの、気がつかなかった」
「ほんとに速いわ、一年って、、、、」
「、、、、」
マサオは曖昧な返事しかできなかったが、興奮気味に言う知子の話を聞いているだけで楽しさを感じた。そして知子の見たと言う、太陽が沈んでいく光景を思い浮かべながら歩いた。満ち足りた気分であった。マサオが舗道の敷石につまづきかけた。それを見て知子はいたずらっぽい笑みを浮かべながら話しかけた。
「どうも変ね、今日は何かいいことがあるみたいね」
「どうして?」
「だって、さっきから上の空じゃない。それになんか楽しそうじゃない」
「楽しそうに見える? そう、今日はいいことがあるんだよ」
《いや、ほんとうは何もないよ。君とこうして歩いてあることがいいことなんだよ。君と歩いていることが楽しいことなんだよ。それ以外今の僕には楽しいことなんてないんだよ》
とほんとうはマサオは言い続けたかったのだったが。
 マサオはなにも言わなくなったとも子がなんとなく気に
なり、知子のほうを見ながら大げさな身振りを交えていった。 「君だって、さっきから楽しそうじゃない、何かあるんだろう。デート!、デートか、うらやましいなぁ!」
《どうしてそんなことをいうのかしら》
と知子は不満げに思った。  知子の顔から笑みが消えていくのがマサオに判った。 《なんてつまらないことを言ってしまったんだろう》とマサオは思った。 《正直になろう。照れ隠しは止めよう。さっきからこうしていっしょに歩いていることに、自分が楽しんでいるように、知子は楽しんでいることは判りきっていることではないか》とマサオは思った。  夕日はもうどこにも見えなくなっていた。そして町は薄暮の風景に変っていた。マサオは息を大きく吸って呼吸を整えた。空気がいちだんと冷たくなっていた。
 マサオは先ほどから黙っている知子を気遣うように話しかけた。
「今日はなにも予定はないの?」
「ええ」
「それじゃ、まっすぐ家に帰るだけなんだ」
そのとき一台の車が二人の会話をさえぎるように排気音を響かせながら猛スピードで通り過ぎて行った。表情を曇らせてその車に眼をやる知子を見ながら、マサオも話を中断するように何気なくその車を眼で追った。そして黙っている知子に注意を向けながら歩いた。しばらくして知子が穏かに話しかけた。
「男の人って良いわね。自分の思い通りに好きなことやれて、、、、自由気ままに遊んで楽しんで、、、、」
「僕が自由気ままに遊んでいるって言うの?」
とマサオは笑みを浮かべながら言った。
「あなたのことじゃないけど、ふつう、男の人ってそうじゃない。よく言うじゃない、それに比べて、、、、」
「女の人だって好き勝手に遊んでいる人いるよ。どう、君も遊んだら。でも楽しいか楽しくないかは本人次第だからね。君にはね、、、、」
「高橋さんもやっぱり普通の人にように、いろいろと遊ぶの?」
「いろいろって?」
「ギャンブルとか、それに独身の男の人が楽しむところ、、、、」
「そう見える?」
「そうは見えないけど」
「ないことも、ないけど、、、、」
そのとき驚いたようにマサオの顔を覗きこむ知子のようすがマサオには判った。
《そんなに驚かないでおくれ。僕だって普通の男さ、でもそれは現代にあってとても不幸なことなのだよ。それは苦しみなのだよ、だから、、、、》
とマサオは言いたかったが言葉にならなかった。
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 ・・・・・・・・・・・・・
「最近、女の人も酒を飲んだり、ギャンブルをしたりして楽しむのが普通なんだってね、、、、」
そういう知子の表情にマサオは迷いのようなものを感じた。
「そんなこと、だれが言っているの?」
「だれって?、テレビとか新聞とかで、、、、」
知子がそんなことに惑わされ頭を悩ますことはないとマサオは思った。そして知子にはふさわしくないように思われた。マサオは強い口調で言った。
「それは人の好き好きだよ。女だって男だって、遊びたけりゃ遊べばいい、楽しみ炊きゃ楽しめばいい、なにも人の真似をすることはないよ。君には似合わないよ。必要ないよ、だいいち、そんなことは普通でもなんでもない、、、、」
そういいながら最後のほうになるとマサオの声は怒ってでもいるかのようにだんだん大きくなっていった。
「真似しようとは思わないけど、ただ、、、、」
と声を低めてはなす知子を見ながら、マサオはふと、自分のことのように興奮していることに気づいた。すこし言い過ぎたかなと思った。マサオは興奮を鎮めるかのように苦笑いをしながら知子の方を見た。知子の表情に怯えた気配はなく、少しも気にしていない風であった。それは何か考えごとに耽っているかのように、とても穏かな表情であった。なぜこんなに興奮したんだろうとマサオは思った。だがそれほど後味のあるさはなかった。むしろその前よりも充実した気持ちになっているのを感じた。

 夕闇に車のライトが目立ってきた。知子が言いにくそうに話しかけた。
「男の人ってやっぱりあれなのかしら?、、、、他の人と話すのイヤなのかしら?、、、、」
マサオは怪訝な顔をして知子を見た。知子は恥ずかしそうに笑みを浮かべていたが、思い切ったように話し始めた。v 「私が付き合っている人、私がほかの男の人と話したりすると、とてもイヤな顔をするの、ひどいときには人が変ったように不機嫌になって、怒ったり、言わなくてもいいようなことまで言うの、それも突然、、、、やはり男の人ってイヤなのかしら?、みんなそうなのかしら?」
 漠然としていたがマサオには、知子の言おうとすることはよく判った。マサオは以前から、知子が自分を信頼したように素直な気持ちでなんでも打ち明けてくれることを嬉しく思っていた。ありがたかった。そこでマサオは、何とかして思い悩む知子を助けてあげたい、迷いからすく出してあげたいと思った。
 ちょうど騒々しい交差点にさしかかった。渡りかけようとすると信号が赤に変った。おびただしい車がいっせいに目の前を通り過ぎる。マサオはなにげなく知子に眼をやった。マサオの存在を忘れたかのように思い悩む知子の横顔にマサオは眼を奪われた。それは寂しすぎる孤独な表情だったからだ。
 マサオは祈るように思った。
《僕は知っている。
僕が君に好意を寄せていて、君が僕に好意を感じていることを。
そして、君が僕に好意を感じていることを君自身が知っていることを。
だが、君は知らない。
僕が君に好意を寄せ続けていることを》
このかんマサオは、美しい音楽を聞いているような気分だった。マサオはますます知子を何とかしてあげたいと思った。だがこれから先は人通りが激しくなり、さらに騒々しくなる。落ち着いて話せない。満足に答えて上げられないと、マサオは思った。


 信号が変った。マサオはふとまわり道をすることを考え付いた。そして歩き出そうとする知子に言った。
「今日は、ほんとうに、なにも予定はないの? それなら、少し遠まわりをしない、、、、」
そう言いながらマサオはいつもと違う道を歩き始めた。知子は一瞬ちゅうちょしかかった。良夫のことが頭に浮かんだからである。だが、知子はそんな自分に不満を感じた。そして、こんなことで良夫に気を使う必要はない、もう良夫のことなんかどうでも良いと思い定めると、少し顔を上げてマサオの後をついて歩き出した。歩きながら知子は、何にも悪いことをするわけではないんだからと自分に言い聞かせた。


 切れ目なく通り過ぎる車の騒々しさに、マサオは苛立った。だがまもなく車も少ない静かな通りに出た。マサオはゆっくり歩きながら、知子の言ったことを思い返した。
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「さっきの話しだけど、いつもそういうふうなの?」
「そうね、いつもっていうわけじゃないけど、、、、ただ、、、、」
そのときマサオにはなんとなく知子ののろけのようにも感じられた。
「君があんまり目立つようにするからじゃないの?」
「そんなこと!」
そういう知子の表情は堅いものに変っていた。惚気ではない、知子にとってやはり深刻な問題なのだ、とマサオは感じた。
「いや、、、、たぶん、、、、きみのことすきだから、ついそうなるんじゃないのかな、、、、」
「そうかしら、なにもあんな言い方をしなくても、ごうまんよ、、、、」
その知子の口調には憎しみに近い響きが感じられた。
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「高橋さんも、そうなのかしら、、、、」
マサオは返答に困った。そしてなぜか迷った。
「・・・そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない、、、、そのときになってみないと判らないなぁ、、、、」
とマサオは考えにまとまりのつかないまま曖昧に答えた。そのせいか会話が不自然に途切れてしまった。  深刻な表情で黙っている知子をながらマサオは、《役に立ったのだろうか?、何にも役に立たなかったのでは、かえって知子の気持ちを混乱させてしまったのではないか?》と思った。そして独りで思い悩む知子の姿に、精神的な支えを必要としているような女のか弱さを覚えたマサオは、知子をこのまま放って置けない気持ちになった。そして、いっそのこと、『お互いに信頼しあっていれば、そんな問題は起きない』と言えばよかったのだろうかと、少し激しく後悔した。
 マサオはその男のことを思った。傲慢で自分本位で嫉妬心の塊のような人間像が浮かんできた。ふと自分のほうが優れているような気持ちに捕われた。そして、自分ならそんなイヤな思いにさせないだろう、自分のほうが知子を幸せにできるのではないかという気がしてきた。マサオは急に、知子の気持ちをその男から自分のほうに向けさせたい気持ちになった。そして、そんな男とは別れてしまえというべきだろうかと迷った。
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「高橋さんの生まれはどこだったかしら?」
「生まれ? どうして?」
「ただ、なんとなく、、、、」
「・・・生まれは、、、遠い遠い北の国、、、、」
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「高橋さんて、あまり自分のこと話さないのね、、、、私とは話しづらいのかしら、、、、」
「いや、そんなことはないよ。君の話を聞いているほうが楽しいんだよ。それでつい、じぶんのことをわすれてしまうのかな、、、、」
「うそ!、他の人にはちゃんと話すんでしょう」
「ほんとうだよ。まあ、話したって良いんだけど、君にはつまらないと思ってね」
そういい終わるとマサオは次のように心のなかで呟いた。
《ほんとうさ、君の話を聞いているのがどんなに楽しいか、君はまだ何にも気づいていないようだね》
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 ・・・・・・・・・・・・・・
 知子の表情に落ち着いた晴れやかさが戻ってきた。
 このままでいいのだとマサオは思った。
《もう知子の気持ちを自分のほうに引き寄せる必要はない。今のように話しながら歩いているだけで十分なのだ。お互いに愛情を告白し合い、確かめ合い、拘束しあう、なんと煩わしいことか。恋人気取りで町を歩いたり、映画を見たり、食事をしたり、それがどうしたというのだろう。なんと愚かしいことか。やがて、家族親戚への紹介、結婚、新婚生活、そして子供の誕生、、、、なんと遠まわりな、なんと退屈な、ことか。これからどんなに発展しようと、今のこのような関係に勝るものはないのだ。このように知子を思い続けていることが最高なのだ》とマサオは恍惚として思った。
 マサオはそれが二人の理想の関係のように思われ、ますます満ち足りた気分になっていった。マサオはただひたすら自分の思いに酔いしれた。
 だいぶ薄暗くなって来ているのにマサオは気がついた。駅が近くなったのか、人通りが多くなってきた。
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「この前、君の住む町を通りかかった。近くに川が流れていたね、、、、」
「川?」
「なんか凄く汚れていたけど」
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 駅前の人ごみが見えてきた。華やかな夜の光が輝き始めていた。時計は六時を過ぎていた。
「斉木さんて、会社止めるみたいね、聞いてない?」
「まだ、何にも、あの人は、女の人の混じって話すのがスキだからね。何かあるとすぐ、女の人たちに話して噂をばら撒くんだから、、、、」
「ふーん、ほんとかしら?」
「さあ、判らないけど、でもいろいろと不満があるみたいだね。大変なんだよね。僕も持ちそうにないな、、、」
「どうして?」
「・・・今の仕事も、こういうところでの生活も僕には合わないような気がして、、、、」
「そんなことないわよ。今までやってきたんだから、大丈夫よ。それに高橋さんはやさしいから、、、、」
やさしいことと都会で生きぬくこことは別の問題のように思われた。だがマサオには知子の励ましの言葉がなんとなくうれしかった。
 混雑する駅前まで来ると二人は何気なく別れた。
             










     
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