ブランコの下の水溜り(22部)

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          はだい悠








「いや、いますれ違った男、どっかで見たことがあるんだよ、、、、、、そうだ、いつか宿舎に来た刑事だよ。イヤな感じだなあ。まさかボクを疑っているんじゃないだろうな。いやね、、、前に離したじゃない、いっしょに働いていた仲間が殺されて、その犯人らしい男が捕まったって、でもその男は犯人ではないらしいんだよ。実はボクとその殺された男とはちょっとあったんだよ。調べればボクが疑われかねないようなことがね。なにせ刑事が来たときボクはそのことを隠したからね。まずいなあ、、、、、でも気のせいかもしれないな、かりにそうだとしても、偶然ってこともあるからな」
「、、、、いや、偶然じゃないかもしれないよ、、、、」
「脅かさないでくださいよ。いくら僕が犯人でなくても、疑われるのはかなわんよ。重要容疑者とか言ってさ、もし名前でも新聞に載ったらみっともないよ。これほど不名誉なことはないよ」
「不名誉?」
「そうだよ不名誉だよ。殺された人間が社会的にも政治的にも、名の知れた人物なら殺した動機として何とかもっともらしい理由がつけられから、疑われても体裁が悪くないけど、あんな何の役にも立たないような、しかも無名の男を殺したって疑われるのは不名誉なことだよ。だいいちあんな浮浪者みたいな男と関わりあうこと自体がみっともないことだからね。まかり間違って新聞にでも名前が乗ったら、田舎のお袋は寝込んじゃうよ。でも、どうやら、人違いのようなだな」
と清二は後ろを振り返りながら言った。 
   二人はふたたび賑やかな通りに入り、十分ほど歩いたあと、人影もまばらな通りに入った。そして二分ほど歩いたあと、周囲に一二階建ての木造住宅が密集する清二のアパートについた。
 アパートは二階建てで、八世帯が住めるようになっていた。清二の部屋は二階で、六畳間、台所とトイレの付いた三畳間の二つであった。
 部屋に入った高志は開けられた窓から首をだして周囲を見ながら言った。
「こんな所にひとりで住むのもなるくないな」
ぽつんとそう言ったあと高志は、壁に寄りかかって座ったまま何にも喋ろうとはしなくなった。それは何かにいらだって不機嫌なためなのか、それとも何か考えことをしているのか、その無表情さからは、清二は知ることはできなかった。しばらくして高志が話し始めた。
「さっきはちょっと言い過ぎたかな」
「何を?」
「単純だなんて」
「いや実際そのとおりなんだから、かまわないさ、、、、」
「、、、、ボクはイヤなんだよ。あのときの君の言い方だと、まるで女房が、夕ご飯作って待っていてる家に、亭主が帰って行く見たいじゃないか、ボクはそう云う古臭いイメージはイヤなんだよ。それでますます依怙地になったんだけど、とにかくボクは、女房を、女房と云う言葉がよくない、ボクは洋子を、家事やボクの身のまわりの世話をするだけの女性と云う考え方はしたくないんだよ。僕たちは別個の人格だからね、男と女とかいう関係ではなくて、お互いに自立した人間として、尊重しあう関係でいたいんだよ。君はどう思う、前に僕のマンションに来た男たちの考え方、女は美しければ良いとか、社会のことは知らなくてもいいとか、あの男たちは、女房を働かせるのは男じゃないよって言っておきながら、自分の女房を身のまわりの世話をしたり子供を生んだりするだけの奴隷としか思っていないんだよ、、、、、」
「、、、、うぅん、そうだなあ、、、、それよりどうも腹のほが気になってしょうがないんだよね、、、、何か食べるでしょう。かってくるから、何がいい、インスタントラーメン、それてもパン?」
「サンドイッチ」
と高志は微かに笑みを浮べながら言った。
 清二は近くの店からサンドイッチと缶コーヒーを買ってきた。
 高志はあまり食べなかった。
 清二が食べながら言った。
「どう、何となく味気ないでしょう。確かにうまそうにはで来ているんだけど、なんか物足りないんだよなあ、たぶん作った人の姿が見えないからだろうね。ものを食べるときって云うのは、知らず知らずのうちに、作った人の姿を思い浮かべているんだよね。だから、、、食べて、うまいって思うのは、周りの雰囲気や食べ物の形や味のせいもあるけど、作った人の温もりや思いやりを感じているからなんだろうね。でもこれじゃ、どういう人間が作ったのか、全然わからないよ。もしかして機械で作っているかもしれないからなあ。まあ、家庭料理を食べている者にとっては、不味く感じるのも無理はないだろうね。これでやっと落ちついたよ。どう最近、まだ、気が滅入ったりすることあるの?」
「相変わらずさ」
「でも、以前よりは気分的に楽じゃないの?」
「ちっとも、変ってないよ。洋子が何か言ったの?」
「何も言ってなかった。ただ、、、、、」
「ただ、何なの?さっきの通りでもボクの姿を見れば判るじゃない。どうでもいいようなことに苛立ったりしてさ、君から見れば、どうなっているのか訳がわからないだろうが、僕にだって、自分がどうなっているのか判らないよ。最近、洋子ともあまり話してないんだ。洋子だって仕事を持っているからね。僕の不機嫌そうな顔や苛立っている姿を見たら気になって仕事に専念できないと思うからね」 「それはそうかもしれないけど、でもなんか変だな、よそよそしいんだよな、一つ屋根の下に暮らしている夫婦なんだからさ、もう少し協力し合うっていうか、なんていうか、、、、、、」
「頭が割れそうにいたくって、苛立っているときに、どうして冷静になれるんだよ。僕には我慢できないよ。結局辛くあたって、お互いイヤな思いをするに決まっているからね」
「いや、冷静になることも、我慢することないのさ、頭が痛かったら、『頭が痛くて気分が悪い』ってはっきり言えば良いのさ。そうだな、『ボクちゃん、頭が痛くて死にそうだ』とか言ってさ、奥さんの膝に顔を埋めるのもいいんじゃない、、、、」
「、、、、どうして、どうしてボクがそんな甘ったれた子供みたいなことができるって言うの?、出来るわけないでしょう。お互いもう大人なんだから、、、、」
「まあ、それはちょっと冗談だけど、でも、少しぐらい甘えたっていいと思うんだけどなあ、、、、、」
「さっきも言ったように、ボクは、夫婦といえども、そう云う主従関係みたいなのはイヤなんだよ。お互い同格でいたいんだよ」
 そういったきり高志は黙ってしまった。その表情には、もうこれ以上清二のいうことを受け付けないような冷ややかさがあった。清二は今まで何回となく高志と会っていたが、高志がくだらない冗談言って馬鹿笑いをしたり、ふざけたりしたのを見たことがないことに気づいた。それは彼が冗談を言ったり理解したりすることが出来ない人間であるからでなく、いつも精神を緊張させているからに違いなかった。なぜなら彼は、どんな冗談でも理解できるほど知的であることは間違いないからである。
 清二は、彼が理由もなく苛立ったり頭が痛くなったりするのも、たぶんそのためのような気がした。ただ、彼が何が原因でいつも精神を緊張させているのかは判らなかった。
 静かであった。窓の外からは遠く表通りを走る車の音がかすかに聞こえて来るだけであった。しばらくうつむき加減に黙っていた高志が突然不安そうな目を清二に向け驚いたように言った。
「なに、あの音は?」
「おと?」
と言いながら清二は耳を済ましたが、高志を不安がらせるような物音は何も聞こえなかった。
「ほら、聞こえるじゃない、、、、、」
と高志はますます不安そうな表情で言った。清二はふたたび耳を澄ました、しかしやはり何も聞こえなかった。ただ一階に住む赤ん坊の甘えるような声が微かに聞こえた。清二はそれを聞きなれていたので、特別な音には聞こえなかったのである。それに、その音のために高志が不安がっているとは思えなかったからである。
「、、、、赤ん坊の声は聞こえるけどね。他にも何も、、、、、」
「赤ん坊?あれは赤ん坊の声なの?でもなぜ赤ん坊がこんな所にいるの?ここは独身だけが住んでいるんじゃないの?」
「うん、そうだけど、母親と二人で住んでいるみたい」
「それじゃ父親はいないの?どんな母親なんだろう?」
「二十歳ぐらい、でも何をやっているのかはよく判らない。父親らしい男の声も聞いたことがない」
「いったいどんな女なんだ。それじゃまるで私生児じゃないか。なんてだらしないんだろう。君はこういうのを見てなんとも思わないのか?」
と高志は興奮して言った。清二はすこし途惑いながら答えた。
「まあ、だらしないし言えばだらしないけど、でもなあ、社会で何が起こるか隅々まで見てる訳じゃないから、それに仮に見ていたとしても、他人のやることにいちいち口を挟む権利をないし、どうしようもないんだよな」
「本当に困ったもんだよ。どうなっているのか、そう云う子供を生んで、いったいどうしようって云うんだろうね。まともに生まれてくる子供さえこれから大変だと言うのに、おそらくその母親は、自分の子供をおもちゃのようにしか思ってないんだろうね、、、、、」
 そう言って高志はまだ黙ってしまった。
清二はいつのまにか高志がタバコをだして吸っていることに気づいた。
「あれタバコは吸わなかったんじゃないの?」
「止めてただけだよ。吸いたくもなるよ」
「ボクは意志が弱いからどうしても止めれないけど、一度止めたんなら吸わないほうが良いのにね。体に悪いことはハッキリしているんだから、肺がんにもなって死んじゃうかもしれないよ」
「別に死ぬことは怖くないさ、どうせいずれは皆死ぬんだから。ただそれが早いか遅いかの違いだけじゃない。そんなに命が惜しいなら君こそ止めるべきだよ。意志が弱いとか言ってる場合じゃないですよ」
「そりゃあ、そうだけど、ボクは今のところ独りだから、死んでも悲しむものが誰もいないからいいけど、あなたにはちゃんと奥さんがいるんだからね」
「大丈夫さ、そんなに簡単になりっこないさ、タバコを吸ってがんになるなんて確率に過ぎないよ。誰もがなるわけじゃないよ。宝くじが当たるようなもんだよ。一生に一度、自分の身に非常にまれなことが起こるんだ、むしろ喜ばしいことと思うべきだよ。だいいちボクはなんでもかんでも長生きをすれば良いと云う考え方はきらいなんだよ。ただ長く生きることを目的にしてさ、体の健康にだけ気を使ったり、その健康を保つために、あえてスポーツをして体を鍛えたりすることにはうんざりだよ。確かに体も丈夫になって、夜もよく眠れて、仕事もできるようになるかもしれないけど、でも、それじゃ頭は空っぽじゃない。奴隷と同じだよ。何もそこまでして仕事ができるようにならなくたっていいじゃないか。それでさ自分で自分のことが判らない状態になっても、無理やり機械装置で生かされたりしてさ、そのようにして生きて何の意味があるんだろうね。とにかく自分の精神的なものに目を向けないで、のんべんだらりと生きたってどうしようもないよ、、、、、まあ、タバコを吸うと出世に関わる人にとっては重要なことだろうけど、でももうそんなの関係がないからね、、、、、」
「そうだよなあ、それも変な話しだよな、デブとタバコを吸う人は出世できないなんて、、、、、でもそれは人類で最も衰弱した種族の発想と云う感じだね、、、、」
「衰弱した人間? でも彼らは優秀な人間のように言われているけどね」
「うん、彼らは確かにバイタリティに充ちた優秀な人間と思うよ。でもそれも何となく一代限りっていう感じなんだよね。彼らは次の世代には何にも伝えられないような気がするんだよ。だから種族といったんだけどね。だってそう云う変なことが表立って話題になったり問題にされたりする社会と云うのは、知的で合理的で何となくせかせかして、窮屈な感じがするじゃない。まあ、彼らは仕事柄そうなるように要求されているんだろうけど、それに彼ら自身もそれで良いと思っているんだろうけど、でもね、次の世代に何かを伝えていくって云うのは、平凡で曖昧であったり、いい加減であったりして、もっとゴチャゴチャとして、泥臭いもののような気がするんだよね、それは簡単そうでむずかしくて、むずかしそうで簡単なもののような気がするんだよね。それに比べて前に言った人たちのやることは何となく格好よすぎてなんか変なんだよね。どうもその人たちの代で終わってしまうような人間たちのような気がするんだよね」
 清二はトイレに立った。そして戻ってくるとふたたび話し始めた。
「変だというば、さっき高志さんが言ったように、あえてスポーツで体を鍛えたり、金をかけて気分転換をしたりして、健康面に気を使うっていうのも変な話だよね。そうしなければ、健康体で気分よく仕事が出来ないと云うことなんだろうけど、でも、それじゃ、まるで、現代の仕事はやっているうちに心身ともにだんだん悪くなっていくみたいじゃないか。昔よりはるかに労働量が少なくなって生活もよくなったはずなのにね。かつて生きていくための労働で、人間自身がおかしくなっていくような時代があったかね。まったく変な時代だよ。本末転倒って感じだね。ほんと、あなたが言うとおりだよ。何もそこまでして仕事が出来るようにならなくたっていいと思うよ。皆あくせくすすぎなんだよ。そういえば、ボクの仲間には、そう云う現代的な人間と云うのはまったくいないね、皆いい加減というか、気楽というか、酒飲んで気分が悪いとか、なにか面白くないことがあったりすると、すぐ休むし、とにかく好き勝手なんだよ。普通の人よりボクは自由気ままにやっているかもしれないけど、でも彼らのあいだに入るとボクは超まじめ人間になってしまうんだよ。でも彼らが、いくら自分の好き勝手に振舞うと言っても、まったくの怠け者でもないから、いちおう働くときは働くんだよね。それで落ちぶれることもなく、どうにか生きていけるんだよね。多少いい加減でも人間と云うのは、どうにかなるもんだわ。ただ彼らがいくら気ままに生きているといっても、高志さんのいうように精神的なものを備えているかって言うとそうでもなくてね、自分さえが、いまだけが楽しければいいと云う刹那的でエゴイスティックな人間たちなんだけどね。それにさ変だといえば、精神的におかしくなって医者を頼らなければならないっていうのも変な話だよ。ボクは人間は本来、そう云う医者に頼らなくても生きられる生き物だと思っているよ。だからそうしなければならないって言うのは、なにかがおかしいんだろうね。確かに生まれつき変な人間もいるよ。でもそれだって周りから変人扱いされて疎外感をおぼえたり、自分と云うものに悩んで落ち込んだりすることなく生きられるはずだよ。話は余談になるけど、僕たちが、人間が集まって住んでいるところを歩いていて、もっと頻繁に、変な人といわれる人たちに出会ってもいいんだよね。なぜなら、そう云う人間は四五軒に一人位は入るはずだからね。それに頻繁に見かけると云うことはいいことなんだよ。なぜなら、そう云う人間が安心して外を出歩けると云うことは、ある意味では、人間的な環境であることだからね。だから逆に言うと、そう云う人間を見かけないようなところと云うのは、むしろ人間にとっては住みにくい異常な環境なのかもしれないよ」
 清二が話し終わっても高志は黙っていたが、表情はいくぶん和らいできたようであった。しばらくして高志がそわそわし始めた。そして今日はこれで帰るよといって立ち上がった。清二は用事があったのでいっしょに外に出た。
 表通りに入る前清二は高志に話しかけた。
「そうだ、奥さんに今日のこと謝っていてね。戻ってくるからって約束したのに、すっぽかしたんだから、これからは二度とご馳走してもらえなくなるかもしれないからね」 「ああ、判った。ちゃんと言っとくよ。でもね、君が期待するほど洋子は料理が上手じゃないよ」
「いや、そんなのかまわないさ、それじゃ、ここで、、、、」
「、、、、今度来たときは今日みたいなことにはならないと思うから、これに懲りずに、また遊びに来てよ。それじゃさようなら、、、、、」


 清二は高志とは反対の方向に向かって歩き出した。しばらくして、清二も用事があったコンビニから木村が買い物袋を下げて出てくるのが見えた。
 清二は挨拶をしようとして木村のほうを見ながら近づいていったが、木村は気づかないようであった。するとその後から出てきた三十前後の女が木村に親しそうに話しかけると、木村は頷いた。清二は彼の奥さんかと思いながら見ていたが、どこかで見たことがあるような女だと思った。その瞬間清二は見てはならないものを見たような気がして思わず顔をそむけ、店には入らずそのまま通り過ぎていった。
 木村の奥さんらしき女は、かつて三好がオレの彼女と言った女だからである。清二は先日木村に誘われて飲んだときに、彼が言ったことを思い起こすと、なぜ彼が不安そうな表情で自分の思いを歯切れが悪く言ったのが、すべて納得できたような気がした。
 清二はイヤなものを見てしまったと云う後味の悪さを覚えた。それにしてもなぜ木村のような男がいくら親のすすめがあったからとはいえ、あのような女と結婚したのかは、清二には不可解であった。どう見てもあの二人は不釣合いであるからだ。年の差と云うよりも、性格的にまったく正反対であるからだ。木村は愚直なほど真面目で、地味で大人しい男であるが、それに比べて、彼の妻はどう見ても外交的で派手で遊び好きといった感じの女である。
 清二は、彼ら二人がいっしょに生活すれば、女のほうは木村に対して物足りなさを感じ精力をもてあますに違いないと思った。それに彼女を最初に見たときに感じた印象、異性関係にだらしなそうと云う女の印象、つまり自分の性的魅力をちゅうちょなくさらけ出して、感覚的なものに貪欲そうな印象を思い合わせると、三好と付き合おうとするのも当然にような気がした。しかし三好の木村を嘲笑するような言葉や、木村の不安そうな表情を思い浮かべると、どうにも割り切れないものを感じた。


 ある日の朝、全従業員を集めた社長は、その強持てのする顔に、かつて見たことがないほどの怒りを顕にして小言を言い始めた。もちろんそれには理由があった。最近従業員のほとんどが休みがちで、そのなかでも半分も出て来ない者もいた。それは季節がら風邪が流行り、体調を崩したものもいたが、仕事がそれほど忙しくなかったため、従業員のほうで勝手に判断して休みを取っていたからである。しかし社長にとってはそれは職場の雰囲気がだらけたものに見えたようで、しかもそのように勝手に判断されて休まれると云うことは、社長の権威に関わると云うことなのか、かなり気に入らないようであった。社長が声をあらげて言った。
「、、、、、やる気がないならいますぐ辞めてもらうよ、代わりはなんぼでもいるんだからな、、、いまどきこれほどの給料を出すところはないから、新聞広告で人はなんぼでも集められるんだよ」
 従業員が自分の判断で休んだことは責められても仕方がないことであった。しかしいくら怒りで興奮しているとはいえ、それはまるで従業員の人間性を無視するような、そして取り替え可能な機械部品であるかのように見る言い方であった。日頃が社長を在る程度は思いやりがあり、話もわかる人間と思っていた清二にとってはそれは社長の心の奥底に流れる本音のように感じられて、それだけは聞きたくないことであった。
 その発言で社長もだいぶ怒りもしずまったようで、先程よりは少し穏かに話し始めた。
「いいか、今の現場は今日で終わらせるように、明日からは新しい現場に入るから、道具類も全部引き上げるように、、、、、、、」
 皆は押し黙ったまま事務所を出たが、車に乗り込むと、怒られたことを忘れたかのように容器に世間話を始めた。皆は社長の言葉をそれほど気にかけてはいないようだった。

 社長といっても、多いときでも従業員が十数名の、それに出入りの激しい建築業の社長ではあるが、彼は従業員の前では大企業並みの権威をひけらかす虚栄心の強い五十過ぎの男であった。彼はつねに頑固で非常に怒りっぽく横暴でもあった。ただその半面非常にさばけたところがあり、細かいことにはあまりこだわらずユーモアを解し、従業員に対する彼なりの思いやりを持っている男であった。それらのことは、流れ者や一筋縄では行かないような人間たちを、従業員として使っていく上で必要なことがも知れなかった。だから清二は今まで、社長の権威的な言動も仕方がないこととして納得していた。しかしその一方で清二は社長に対して不透明なものを感じていた。それは不満や仕事上の問題を冷静に話し合いによって解決したいと、清二は考えているのであったが、社長には権威主義的な姿勢だけが目立ち、そう云う気配がまったく感じられないからであった。
 たとえば以前、三好が仕事上の問題で、社長に怒られ、まるでいじけた子供のように感情的になって、辞めてやるとみんなに言ったまま仕事に来なくなったときがあった。周りのものは社長の横暴さに我慢しきれなくなってついに辞めたがと思っていたが、三日後三好はナニクワヌ顔でふたたび仕事に出てきた。それは話し合いで問題が解決したからというので決してなかった。時間の経過とともに感情的なシコリが解けたと云うのに過ぎなかった。社長もそんなに細かいことにはこだわらないと云う性格からか、三好の行動を問題にしなかった。
 そう云う曖昧な解決方法が、社長の前では何も言えなくなると云う隷属的な主従関係を作り出しているに違いなかった。それに清二は自分から見て腕のいい職人と思われる人間は入ってきてもすぐ辞めていき、質の悪い人間だけが残っているような気がした。それは充分に考えられることであった。なぜなら目先の聞く優秀な職人にとっては、社長の権威主義的なやり方に反発を覚え、問題を解決するのに、馴れ合いのような曖昧なやり方を潔しとしないのは当然だからだ。
 それに比べて、質の悪い従業員は、どんなに不満を抱き陰口をたたこうとも、社長の眼の前では決して不満顔や反抗的な態度を見せず、従順そうに羊の皮をかぶってかしこまっているだけなのである。
 実際、独裁者のような人間にとって、理屈っぽく批判的で堂々とした人間よりも、陰でどんな言動を取ろうとも、眼の前で尻尾を振って黙って従う卑屈な従業員のほうが使いやすいのは自然なことかもしれなかった。
 ただし、考えようによっては、社長のやり方は権威主義的で飼い殺し的ではある反面、そこから慈善事業的な意図がくみ出せないわけではない。つまり社長は仕事があまりできなく、同僚ともトラブルを起こしやすい人間と判っていても、他では使い物にならないだろうから、自分のところで会えて辛抱して使っているんだということである。それに果たしてこの社会に、どのくらいの目先の聞く優秀な職人がいるだろうかと云う問題は依然として解決されてもいない。
 しかし清二はどうしても、社長に対する不透明感を拭い去ることは出来なかったので、心からうちとけることはできなく、これからどれほどの歳月を経ても、自分が望むような関係を結ぶことは不可能のような気がした。


 その日の午後、清二は三好と二人で作業をしていた。それは四十キロほどのコンクリート版をてで持ち上げて、取り付ける作業であった。そこは天井に近い場所であったので、踏み台を必要としていたが、それがなかったので、安全策として設置された鉄パイプを上に乗って作業をすることにした。それは長さが八十センチほどの鉄パイプの片方がクランプと呼ばれる器具で足場に固定されているだけのものであった。清二は危険ではないかと思いためらったが、三好は大丈夫だよ、このクランプは五百キロ以上の過重に耐えられるからと、自信たっぷりに言ったので、清二は自分よりははるかに経験のある三好のいうことなので、間違いはないだろうと思いながらも、まだ少し不信感を持っていたが、作業を中断して踏み台なるものを探すのみ何となく面倒くさく、それに作業が急がれていたときなので、そのまま高さ一メートルほどの鉄パイプの上に乗って、作業をすることにした。
 二人は向かい合い、それぞれ同じように取り付けられた鉄パイプの上に乗って、気合とともに版を持ち上げようとしたとき、清二は足をすくわれ、腰からコンクリートの床に落ちた。
 清二は下は平らな床であることが判っていたので、瞬間的に手で持っていた版を放し、受身を取ったつもりであったが、うん悪く、ちょうど落ちたところに、厚五センチ、幅二十センチほどの角材があったため、腰を局部的に強打した。
 クランプがねじ切れたのである。それは当然といえば当然であった。いくら五百キロの重さに耐えられると言っても、それは上や横からの力に対してであり、ねじれに対してではないからである。ましてや、そこから八十センチ離れた所に清二の全体重が掛けられたのであるから、その回転力は相当なものになっていたに違いなかった。
 普通そう云う作業をする場合は、絶対に踏み台か脚立を使用するようにと、K建設のほうから言われていることであり、二人やり方は、不安全作業として、厳禁されていたことであった。だから事故は紛れもなく二人が横着したために起こったのである。
 清二は落ちたままの姿勢で眼を閉じながら腰部の鈍痛にじっと耐えていた。三好の
「なんで版を放すんだよ、ああいてえ」
と言う声が聞こえてきた。痛みもじょじょに和らいできたのに、目を開けてみると、三好は自分の脛をさすっていた。どうやら三好のほうは足をすくわれず立ったまま落ちたようで、そのときに脛をどこかにぶつけたようであった。
「、、、、、オレは脛を打ったんだよ。ああ、いてえ、いきなり放すんだもんな、ああいてえ、オレは落ちても版を放さなかったんだよ」
とまだ床に横たわっている清二のほうに、ときおり狡猾そうな目を向けながら、三好は、バツの悪そうな笑みを浮べて自分の脛をさすりながら言った。
 腰から落ちて痛みに耐えている清二のことはいっさいかまわず自分のことしか言わない三好の態度は、彼の性格からしてある程度は予想どうりであったので清二にとってはそれほど気に触るものではなかった。ただ三好とは、この事故に関しては何も話したくない気持ちであった。床から立ち上がって五六分、腰にしこりを感じる程度で、痛みはほとんどなくなっていた。落ちた直後の痛みを思うと、意外と軽かったなと云う気がした。


 夕方、一ヶ月に及ぶ工事が完了した。全員で後片付けに掛かった。しかし清二は重いものを持ち上げようとしても腰に力が入らないことに気づいた。そして徐々に圧迫されるような痛みを感じ始めていた。
 冷たい風が吹いていた。
   子猫が鳴き声を上げながらあっちこっち走りまわり、あわただしく動きまわる作業員の足元にまとわりついた。あれほど可愛がっていた三好も元山も後片付けに忙しいためか、子猫にはまったく無関心であった。全部の工具類を車に運び入れると、車は直ちに出発した。いつもよりだいぶ早めであった。
 皆は何事もなく工事が終了した安堵感もあって、いつにもまして作業から開放された喜びを素直に表しては、弾んだ声で世間話に花を咲かせていた。
 だが清二は、腰の痛みがだんだん重苦しいものに変わってきていたので、何となく沈んだ気持ちであった。清二はみんなに事故のことを言わなかった。それは横着をしてふ安全作業をしたと云うみっともなさや恥ずかしさを感じていたせいもあったが、三好が先に言わない限り自分からすすんで言う気がしなかった。
 そのうちに、清二はシートに背を持たせかけているのが苦痛なほど、腰の痛みが増してきたので、窓のほうに寄りかかった。そして痛みのせいか眠気を覚えてきたので、ふたたび目覚めたときにはどうにか痛みが和らいでいることを願いながら目を閉じた。


「ここだよ、国沢が殺されていたところは、、、、」
と云う三好の声を聞きながら清二は目覚めた。体がだるく動かすのが億劫であったので、窓に寄りかかった姿勢で薄目をあけて見た。
 外はだいぶ薄暗くなっていた。清二は腰の痛みが気に掛かっていたので、どこかで見たことがあるような通りだなあと思った程度でふたたび目を閉じた。
 作業が早く終わったときなどには、あたかも時間まで働いていたかのように見せるために、帰りの時間をわざと遅らすと云う変な習慣があったので、今日はいつもより遠まわりをして帰ったようであった。


 夜になっても痛みは引かず、ますますひどくなっていくような気がした。
 翌日仕事を休み病院に行った。単なる打撲ではあったが、完治までには三週間もかかるということであった。
その日の午後、社長が心配そうな顔をして訪ねてきた。それよると、治療費は会社で払うが、労災にはしないということであった。
 社長は口にこそだして言わなかったが、そこには労災で補償してもらうためにはいろいろな手続きをしたり、調査を受けたりして、なにかと面倒なことが多いので、それならばいっそのこと、会社で治療費を払ったほうが、帰って面倒くさくなくていいと云う考えがはっきりとあらわれていた。
 清二はかつて久保山が言った 「不安全作業をしていて怪我をした場合は、労災はおりない」 と云う言葉が頭にあったので、それほど重症でもなさそうだったので、社長に方針に同意した。ただ休んでいる間の給料保障どうなるかは知ることができなかった。だが、とにもかくにも半分は自分の不注意で起こった事故なのだから仕方がないことだと、清二はあきらめるしかなかった。
 清二は何もすることができないので部屋で寝ているだけの毎日であった。二三日すると、それほど痛みを気にすることなく歩けるまでになった。ただし腰をかがめたりすることはまだ出来なかった。
 怪我をしてから四日目、清二は部屋でじっとしているのも退屈になってきたので高志を訪ねることにした。その日の昼過ぎ、清二はアパートを出た。しかし十分ほど歩くとだんだん腰に圧迫感を覚えはじめ、そのうちに重苦しい痛みとなって思うように呼吸ができなくなってきた。やはりまだ出歩くのは無理だったのかと後悔したが、高志のマンションはもう目と鼻の先であったのでそのまま向かった。


 清二はチャイムのボタンを何度も押したが、中からはなんの応答もなく、、誰もいそうにないほど静かだった。どこかに出かけているのだろかと思い、清二はボタンから手を放したが、もしかしたら寝ているのかもしれないて思い直しふたたびボタンを押し続けた。やっとの思いで来たのだからどうしてもこのまま会わずに変える気がしなかった。
 だが依然として何の反応もなかった。清二があきらめて帰ろうとしたとき、ドアが開けられ高志が顔を出した。やはり高志は寝ていたようであった。パジャマ姿の高志は髪はボサボサで顔色も悪く不快そうな表情であった。
 清二は高志の部屋に通された。高志はまだ寝たりないのか布団に上にうつぶせになると眼を閉じて黙ってしまった。
「寝ているところを起こして悪かったけどさ、、、、いやね、せっかくここまで来て、どうしても出直す気がしなくてね、、、、」
と清二が申し訳なさそうに言ったが、高志は何も答えなかった。
それから五分ほど沈黙が続いたあと、高志が仰向けになり大きくため息をつくとおもむろに話し始めた。
「変な夢を見ていたよ、、、、あれは、塔か建物かな、それにしても高すぎるな、千メートル以上はあったからな、でも、夢だからそのくらいの建物があってもおかしくないかな、、、、どういうわけか君とボクが、その建物の中に居るんだよ、その床に穴が開いていてね、君が足を滑らして落ちるんだよ、その瞬間ボクが手を伸ばして君を捕まえようとするんだけど、それが、届きそうでもあり、届きそうにもないといった、もどかしい感じでね、君の姿がスローモーションのように徐々にボクの手から離れて行くんだよ。結局ボクは君を捕まえることが出来なくて、君はそのまま落ちていくんだよ、、、、、」
「変でもないかもしれない」
「いや変だよ、明らかに変だよ、、、、そうだなあ、下のほうに小さな町並が見えていたから、あの小ささだとやっぱり千メートル以上はあるから、その高さから落ちれば死ぬことは確実ただよね。でもボクは君を助けなかったし、君が落ちていくのをじっと見ていたんだよ。これは夢だからね、気持ち次第ではどうにでも変えられるはずなんだよ、たとえば君を死なせたくないと思ったら、君をシッカリ捕まえて助けるように夢を変えるはできるはずなんだよ。それに君が死ぬのを見たくないと思ったら、君が落ちていく姿を見ないように夢をそこで終わらせることだってできたはずだよ。これだとまるで僕が君が死ぬことを望んでいる見たいじゃないか、ボクは決して君のことを憎んだり恨んだりしているわけではないのにね。おかしな夢だよ。でも心の奥底では、もしかしたら、君のことを死ねばいいとか、邪魔なやつとか思っていたりしてね。いやこれは冗談だけど、、、、」
「まあ、高志さんの心の奥底がでうなっているのかはわからないけど、でもそう云う夢を見たのは、それほど変でも、偶然でもないかもしれないよ、、、、ちょっと横にならせてもらうよ、座っているときつくてね、、、、ああ、だいぶ楽になった。実は四日ほど前に、足場から落ちて腰を打ったんだよ。たいした高さではなかったんだけど、打ち所が悪くてね、今、仕事を休んでいるんだよ、、、、」
すると高志は驚いたように布団から体を起こして言った。
「それで病院には行ったの?」
「行ったよ」
「なんだって?」
「単なる打撲だって、治るまでには三週間ぐらいかかるって。でも病院に行ったからって、何にもするわけじゃないんだよね。シップ薬をしてさらし布を巻いているだけで、あとは時間の経つのを待つしかないんだよね」
「でも、よかったじゃない、単なる打撲で、腰は大事なところだからね。それでどのくらいの高さから落ちたの?」
「たいした高さじゃないよ、ほんの一メートル、でも腰から落ちて、うん悪く落ちたところに板が置いてあってね、、、、」
「なんか聞くだけでも恐ろしい話だね。もしかしたら運がよかったのかもしれないよ。だってそれが一メートルじゃなくて十メートルだったり、下に板でなくて杭があったり、打ったところが腰でなくて頭であったりしたら、考えるだけでもゾッとするよ。前から危険だなあとは思っていたんだけどね」
「高さが十メートルもあったら最初から落ちないように気を付けているさ、事故っていうのは、どういう状態にあるのか判らない周りのものを甘く見て、注意を怠ったり、安全なはずだと勝手に思い込んだりするときに起こるんだよ」
「でも、やっぱり危険なことには変わりないさ、一歩間違えば死ぬんだから」
「大丈夫、死ぬなんてことは滅多にないことだよ。仮に足を滑らして落ちても、安全ベルトをしているし、もししていなくても、途中で止まるように安全ネットがあるし、どうにかなるもんだよ。死ぬ死ぬって少しオーバーだよ。あれ、高志さんは死ぬことそんなに怖くなかったんじゃないの?」
「いや、ボクは怖くはないよ、、、、ただ、怖そうな話だなあと思っただけだよ」
「そうだろうね、確かに話として聞くと怖そうだよね。でもそう云う現場に慣れている本人にとっては、意外となんとも思っていないんだよ。他人のことってちょっと大げさに見えるらしいからね。そうかそれであう言う夢を見たんだよ。いやね、さっきまでは、あなたとボクは何かテレパシーのようなもので通じていて、そういう夢を見たんじゃないかと思っていたけど、そうではなくてあなたが今まで、ボクと付き合っているうちに、危険な仕事をしている奴だなあと思う気持ちが、心の片隅に芽生えていて、それであう云う夢を見たんだよ。それがあまりにもタイミングがよすぎただけなんだよ」
 清二が話し終わっても高志は何か考えごとにふけっているかのように天井の方にボンヤリと目を向けたまま黙っていた。
 清二はここ四日間何もすることなく退屈に過ごしたせいか、何かをしゃべりたい気持ちであった。
「腰にさらしをまくって妙な気分になるんだよね。確かに勇ましくヒロイックな気分にはなるけど、その反面、少しきつく絞めたりするとさ、妙に感傷的で自己陶酔的な気持ちになってさ、自分が弱々しく哀れな感じがするんだよね。たぶん女性が着物を着るときさ、自然に色っぽい表情になるのも、たぶん帯で腰をつよく締め付けるからだろうね。自己陶酔におちいって、自分がか弱いものとか、可愛らしいものとかって思い込むんだろうね、、、、女を絞める、この言葉にはなんかぞくぞくさせるものがあるだろう、、、、」
 高志は微かに笑みを浮かべた。清二は話し続けた。
「と云うことは、着物って、女をマゾにして、男をサドにするみたいだね。以前はさ、女の着物っていうのは、女が活発になって表に出てこないようにするために、女を拘束しておく方法として、男たちによって考え出されたものと思っていたけど、どうやら、男と女の協力で出来上がったものみたいだね、、、、、」
 高志は清二の話にそれほど興味がないのか、それともまだ元気が回復してないのか、あいかわらずボンヤリと天井のほうに目を向けたままで、なんの反応も示さなかった。
 清二はしばらく黙ったあと再び話し始めた。
「高志さんは死ぬのが怖くないと云うけど、人間がいざ死ぬときっていうのは、意外とそうかもしれないよ」
すると急に高志が清二の言葉をさえぎるように話し始めた。
「ボクの云ったのはそう云う意味じゃないよ。みんなのようにこの世に未練はないと云う意味で言ったんだよ」











     
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